ここでの生得説(生まれながらに脳に備わる教養や能力)は、本来の意味では無く、現代社会に形を変えて存在する物という前提の上で書いております。
ロックが生得説を否定した17世紀以降、一般的に人間の知識や教養などと言った物は人間が成長していく段階で得られる経験により、白紙の脳内に書き込まれると言う経験論的考えが主流である。
勿論、現代の価値観では限られた本能を除き人間が最初から知識を持って生まれるとは考えにくい。
しかし経験論で手に入れられる知識や教養の機会、内容に着目すると生得説が現代社会では既に意味を失った物であるとも考えにくい。
まず現代で手に入れられる知識と教養とは何かについて考えてみる。
一昔前の社会ならば、聖書や聖典等が知識であったと考えられる。
現代でも至高の知識にそれらを位置付けている国は存在するものの、一般的に考えると学校教育等で学べる学問が現代社会での知識と言って良いだろう。
次に教養について考えてみる、これは礼儀作法や美術音楽についての情報、楽器の演奏や文学への理解等、発展した学問的知識であると考えて良いだろう。
では現代社会でこれらが得られる場所、より専門的に学べる場所について考えてみる。
世界規模で見ると途方も無いので現代の日本社会で考える事とする。
まず学問的な知識、これらが得られる基本的な場所は学校であると言えるだろう。
ではその学校その物はどうだろうか、誰もがどこで学んでも同じ様な学問の経験を得られるだろうか?
実際はそんな事など無く、私立の小中学校と公立の小中学校では得られる深度が異なるだろう。
また学校外で得られる知識についても考える事にする。
例えば塾や家庭教師などを利用している家庭の方がより知識を定着させる事が出来るだろう。
より深い知識と言うならば大学などに進学しなければ手に入れづらい知識もあるだろう。
教養についても同じように考える事ができる。
教養を得られる場所(美術館や劇場、博物館等)に触れる事の多い子供程、成長過程で得られる経験は多くなるだろう。
習い事も塾や家庭教師の教養版であると考える事が出来るだろう。
では知識教養の話はここで区切り、生得説についての話に戻る事とする。
まず経験論は、生得説を否定する上で、成長するにつれて経験が得られていくと説いている。
勿論これは事実ではあるが、その経験を得られる人間について考えてみよう。
一般的な知識は広く平等に与えられているが、より深い知識や教養等は残念ながら人類全員が成長するにつれて得られる物では無いだろう。
どの様な人物がそれらの経験を得ているだろうか?
それなりに金銭に余裕のある家庭に生まれた人間がそこに当てはまるだろう。
生得説の本来の意味は生まれつき脳に備わった知識や教養である。
現代の経験論での知識や教養は生まれる国や家により左右されるだろう。
成長する際に得られる教養や知識、これらが生まれる場所により左右されるのならば成人した時など、ある程度成長したタイミングでは生得説がもたらす結果と同じ様になるのでは無いだろうか?
生得説は間違っているだろう。
しかし、その対として経験論が掲げる否定の理由は、ある時点で見れば同様の結果をもたらし、現代社会では通じなくなっているのでは無いだろうか?
これこそが現代で形を変えた生得説だと考える。