本来は論理的帰結により導かれるニヒリズム。
しかし現代の人間の間ではその価値観を単に、その時々の感情・気分で未来の行く末に絶望し、一時の気の迷いによりファッション感覚で着飾っている様に見受けられる。
一見するとこれらは、元の意味を知らず単に知見が浅いだけとも考えられるが、当時の欧州の価値観と現代の日本の価値観を踏まえると、頭ごなしにニヒリズムでは無い(ペシミズムに過ぎない)と決めつけるのも間違いだと考える。
その様な考えに至った理由を知るには、当時の欧州(20世紀初頭)の生活に組み込まれた生きる命題・規範について理解する必要があると考える。
当時の欧州諸国は例外あれども殆どがキリスト教国家であり、その教えの根底には聖書ないし形而上学的存在(神)が存在した。「汝の隣人を愛せよ」など現代にも伝わる道徳規範や生きる意味などがそこには存在し、当時の多くの人間がそれらを生きる目的として日常生活の一部に組みこんでいた。
また形而上学的存在にも祈りを捧げ、それらを信じることでこの世界で救われる事や死後の世界で救われる事を期待するなど、ひたすらに己の身を捧げ、委ね、ある種逃避の様な形で生ける形を見つけ日々を生きていた。
しかし、当時の急速な化学・技術革新が行われていく世界では、それらキリスト教的権威も同時に崩れつつあった。「神は死んだ」と言う言葉の意味に含まれるように、もはやその諸価値や影響が意味を持たないという考えも広く広まった。
その様な新時代的な価値観が広まり、キリスト教的な生ける理由を失ってしまったら、後に残るのは当時の発展しながらも生きづらく、格差溢れる薄暗い世界のみだった。それこそがニヒリズムである。
その中で生きる人間は、当然世界に絶望し、また教えにあったより良き世界も見失い、ニヒリズムに陥る事も容易かった。アナキストの登場等、実際にニヒリズムが広がったという歴史も存在する。
その一方で現代の日本はどうだろうか。
「極楽浄土」や「天国」などの考えも勿論存在するが、真に受けている人間は殆どいないだろう。
形而上学的存在も存在しない事は無いが、日本人に最も身近な神またはそれに準じる存在は八百万の神や自然その物等、アニミズム的な物である。
当然それらは、殆どの場合生きる目的にはならず、またそもそもとして、現代日本人は普遍的な神(唯一神や強大な力等の)その物を信じていなかったりもする。
その様な社会では本来のニヒリズムを感じろと言う方が無理がある。
では日本社会における絶望とは何なのか。真っ先に思いつくのは未来の事だろう。
少子高齢化や生活を苦しめる税金、物価高騰や経済的不安等、多くの現代の日本人が未来に対して不安を持っている。
また、これが国の成長段階ならまだしも、ほんの数十年か前まではニューヨークのビルを買い占めたり、朝まで踊り通したりしていた華々しい国であった。その様な過去がある以上、もはや今後には期待できず、あるのは一方的な絶望だけでは無いだろうか。
ここでふと思う事がある、神や宗教に縋り素晴らしき世界を期待することは無くとも、日々の生活の苦しさや、過去の繁栄等、もっと実感し易い、しかし見えづらい形で本来のニヒリズムと同じような事が行われているのでは無いかと。
幸いにも日本は文化的に非常に発展した国であり、そのような社会でも気を紛らわせてくれる様な娯楽は山ほどある。
しかし、その楽しさが一時的に切れた時に直面する本来あるべき絶望こそがニヒリズムでは無いのだろうか?
多くの現代人が余裕の無い生活を送り気を紛らわしている中、少ない人間が一時的にニヒリズムに戻ったのならばそれはペシミズムにしかその目には映らないだろう。
もはやこの社会そのものが厭世的な物に過ぎず、またより良き世界も見えないニヒリズムに過ぎない世界であると言える。
それこそが現代の日本の価値観を踏まえると、頭ごなしにニヒリズムでは無い(ペシミズムに過ぎない)と決めつけるのも間違いだと考える理由である。