論理哲学論考に神をこじつける

前の文体と随分異なりますが、暇な方良ければ〜…

論理哲学論考と神の関係をこじつけてみるのならば一番適しているのは何か。(何の根拠も無いです)
言語化出来る物だけで形而上学的存在を語るとしたら汎神論がもっとも適している説。

普遍的存在の神=一般的な一神教(創造神)は形而上学の典型であり言語化に一番遠い存在なのは疑いの無い事実なので適さない事は明白…
汎神論は一神教から普遍的存在の神を取り除き自然(世界)と神の同一視であり、世界を包括する全てが神である的な物。
あくまで汎神論は一神教に含まれる物の…もはや無神論と言われても納得出来る様な考え(魂や神、現人神の否定)は世界=神と無理やり語れない物を語っており、一見論考には似つかわしく無いかも知れないが、言語化出来た最も簡素で身のある説明(単純明白)だと考えれば意外とこじつけられるかもしれない。

その他にもアニミズム的存在も最初に考えてみたが、霊(語れぬ)が全てに宿る(語れぬ)で言語化には程遠いと思った為除外。

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後から考えてみると汎神論=自然と言う説明で済ませる事自体、神の言語化では無く考えの説明に過ぎないと思ったので…その自然との同一視、そこに存在する神と言う物の根本を説明(言語化)しなければそもそもこじつけられないので適当にしてみます。

前提 : 形而上学的存在(神)=自然・世界
現代だと解明されている雷や虹、昼夜の訪れ、更には地震や竜巻などの災害…しかし現代の人類の叡智を一旦どこかに追いやって、自然の摂理だと考えてみる。
そうするとそれら災害が起こる事で、神の引き起こした行動は一応視覚的にはハッキリと、また完璧な人工言語を使う事で引き起こされた事象の説明もハッキリと出来る様になる。
これらは形而上学的存在を直接言語化できる訳では無いが、その存在を「抽象的な語れない物では無い物だ。」と説明する為に大切な事だと考える。

とは言うものの、神のその本質的な説明については手付かず。ただ戯言を日本語で語っているだけになる。
改めて本来したい事を見つめ直すと、論理哲学論考に神をこじつける。これである。
すなわち神を適当に納得出来る様に言語で語れば一応は体を成す事である。
では説明したかった汎神論での言語の説明。自然=神での存在証明をなんとなくやってみる。

前述した通り神の行動は語れる物だと分かった。
勿論、旧約聖書の様に概念的な物ではなく具体的な物としてである。
では一体なぜその様な行動が引き起こされるのか、例えば雷を例にしてみる。
人類の叡智はどっかにしまい込んでしまったので、今見てる雷はようわからん存在が怒っている様にも、神が人類に制裁(理由は不明)を与えている様にも見える。
しかしハッキリと理解出来る事はその雷の閃光(神の選択)は雲から発せられる物であると言う事だ。(視覚的に捉えられる為)
となると自然とある事が頭に浮かぶ、雲=神の姿の一つでは無いのか。
また虹にせよその他にせよ、視覚的に感じ取れる物は同じ様に考える事が出来るだろう。
視覚的に捉えられる=完璧な人工言語があれば詳細に説明が出来ると言うこと。
その視覚的に捉えた物(自然)を神として認識すればそれは神と言う概念上の存在を語れる事にもなる。

多分エチカとか論考を読んだ人には怒られる様な文章となりましたが…無理やりこじつけるならここまでとんでも理論を展開するしか方法がありませんでした。(それほど論理哲学論考が天才的)

一応ただ自然だから神、と訳分からない事を書いていた元の文章よりかはより論理的な説明(言葉遊び)が出来たかと思います。