匿名で文章を書くたびに思う。匿名って不思議なものだ。顔も名前も出さずに言いたいことを言える。そんな自由が匿名文化にはある。だけど、この自由は、本当に心地よいものなんだろうか?
たとえば、はてなブックマークのコメント。便利だし、自分もよく使う。アカウント制ではあるが、その性質上、言葉を「吐き捨てる」場として機能している部分がある。そのため、匿名掲示板と同様に短い批判や暴言が目立つことが多く、それで十分とされてしまう環境では、会話が生まれる余地が少なくなっている。もちろん鋭い意見や深い考察が埋もれていることもあるけれど、大半は、言いっぱなしで終わる言葉だ。
匿名で言葉を放つ自由は、責任を薄める。その結果、私たちは「吐き捨て」でも構わないと思い始めているのかもしれない。言葉に対する敬意が薄れ、「相手を動かす」よりも「自分のストレスを発散する」ことが優先される。特に、短いコメントや一言で済む批判は、その典型だと思う。
しかし、匿名で書かれる文章はどうだろうか。匿名であるがゆえに、好きなことを書ける自由があるが、同時に責任感が薄れる。その結果、誰にも届かないまま消えていく文章も少なくない。匿名の言葉には、一方で強い力がありながらも、もう一方で儚さを感じさせるのだ。
はてなブックマークのコメントや匿名の投稿は、まるで誰かの心の中の独り言を覗いているような気分になる。そこに人間臭さを感じることもあるけれど、どこか寂しさもある。私たちは本当に言いたいことを言えているのだろうか。それとも、ただ「吐き捨てられる場」が欲しいだけなのだろうか?
もしこの匿名文化が、私たちに本当の自由を与えてくれるなら、それは「吐き捨て」で終わるのではなく、「対話」を生む場であるべきだと思う。でも、顔も名前も隠せる安心感の中で、対話をするのは簡単なことではない。相手が見えないからこそ、言葉が軽くなり、意見がすれ違う。
それでも私は、匿名文化を否定する気にはなれない。むしろ、匿名文化特有の「矛盾」が好きだ。自由でありながら不自由で、温かいようで冷たい。その曖昧さこそが、人間の本質を映している気がする。